香月 隆 Takashi KATSUKI

未覚池塘春草夢

遠野物語におもう

小さなパソコン美術館

鏡文字、鏡絵

画家 故・宮崎静夫(熊本県)さんのこと

橋雑考

自然界はフラクタル

電光探知機

RH-2の四球ラジオ

RH-2その2

西堀栄三郎先生

ハッカー英語辞典

デジカメで新聞スクラップ

小さな紙飛行機

スパイダーコイル

RH-2とソラ

摂氏と華氏

円周率

鶏の羽毛でレントゲンメガネ

Yの与太話(沢庵随想)

トンボ釣り

鏡絵

トンボの翼面荷重

赤トンボのうた

赤とんぼ九三式中間練習機

九三式中間練習機・赤とんぼへ送るエール

鶏が悪いか人間が悪いか
未覚池塘春草夢
(イマダサメズチトウシュンソウノユメ)   〜あれやこれやの雑文〜


【遠野物語におもう】



わたしは戌年なので、犬にまつわる物語が好きです。
遠野物語四二にこんな話があります。
村びとから自分の子ども三頭を殺された母狼(昔は狼と犬は同格だった)が、村の人馬をくりかえし襲います。
たまりかねた村人は、力自慢の男を反撃役に仕立てます。男はワツボロ(上羽織)を腕に巻き、母狼の口にねじ込みます。そして助けを呼びますが、怖がってだれも近づきません。やがて男の腕は狼の腹に達し、さすがの狼も男の腕を噛み砕きながら絶命します。男も里へ運ばれてまもなく死んでいきます。
じつに乾いた復讐劇です。そこには感傷も哀愁も漂いません。叙事詩のように、事実だけが配列されています。なのに、わたしたちは肺腑をえぐられます。これが東野物語の髄です。
わたしもいろんな物語を書いてきましたが、いつも作者の主張を、これでもかこれでもかと盛り込んだ多情多恨のメッセージ劇になってしまいます。
そんなときには思い出すべし「遠野物語」でありましょう。
遠野物語の原案者佐々木鏡石自身、実はハイカラ志向の小説家だったといいます。しかし、挫折の結果、郷土の説話蒐集に方向転換しました。とつとつと遠野物語を語りはじめたのは二十五歳のとき。
一方、遠野物語を書いた柳田國男は官僚的な民俗学者として知られています。東大卒のお役人でした。鏡石の東北弁には閉口したらしく、「鏡石君は話し上手にあらず」と記しています。柳田、三十五歳少々。
少壮の二人の間にどんな「魚心に水心」が交差したのか不勉強なわたしは知りません。しかし「遠野物語」という東北の巨大な平民叙事詩は間違いなく二人の間に誕生しています。これはまさに妖怪です。



【小さなパソコン美術館】



情報量の最小単位は1ビットだ。私達が1秒間に書ける文字情報はおよそ5ビット。読む速度は1秒間に50ビットぐらいか。
ところが人間の目は1秒間に400万ビットの情報を受け取る能力があるという。ならば「るうゑ美術館」でカッと眼を見開いて絵を拝見すれば1秒間で400万ビット。矢継ぎばやに30枚鑑賞すれば(こんなの鑑賞というのかな?)、何と1億2千万ビット(120万メガビット)の情報を得ることになる。ウォー。
てな訳で私はパソコンにさまざまな画家の絵を写真から取り込んで鑑賞することにした。縮小拡大自由自在。「るうゑ美術館」で絵に寄ったり離れたりするあれと同じ効果がある。
先日、ティソの「温室にて(恋敵)」を見ていた。拡大して見ると素敵な絹のドレスを着たフランスの超美女が二人お茶を飲んでいる。これが恋敵だな、顔では微笑みながら心の中では激しい鞘当を展開しているのだろうな、などと考えているうちにはっと気づいた。パソコンの画面の向こうで私のイメージが勝手に遊泳しているのだ。そこはコンピュータがどうあがこうと情報としてカウントし得ない私の幽玄の世界があった。
昨年暮れ、私の映像用ハードディスクがクラッシュを起こして情報が全滅した。何百点という絵画や3千枚以上の資料写真が消失した。一瞬愕然としたが、しばらくたってヴァーチャルな世界から解放された自分に気づき、妙にみずみずしい気持ちになった。ま、いいや、いちからやりなおそう。さわやかなスタートだった。
あれ以来私のパソコンの中で再び絵画データは増えているが、いまはパソコンが壊れることに恐怖を感じていない。それより手入を怠った庭のハイビスカスが来年咲かなかったり、徳佐リンゴが実らなかったりするほうがはるかに寂しい。パソコンが描くセロファンのような世界に一昔前はビル・ゲイツや孫正義氏が、そして最近では堀江貴文氏や三木谷浩史氏が踊っている。



【鏡文字、鏡絵】


(カット 香月 隆)


かつて、セザンヌの自画像が落札額1740万ドル(約二十億二千万円)で競り落とされたことがある。時には一枚三千円の原稿を書かされている私には気の遠くなる額だ。しかしセザンヌも生前はあまり評価されなかったらしい。ま、いいか。
それにしても、セザンヌは何枚の自画像を描いたのだろう。夫人のオルタンス・フィケを描いた油絵が四十四枚で、自画像はそれよりは少ないという。しかし貧乏画家だったから自分というゼニのかからぬモデルを多用したに違いない。
ゴッホは四十枚、レンブラントは六十枚の自画像を描いたという。みんなプロだから鏡絵ではなかったろうな、とゲスな考察を試みる。待てよ?ゴッホの自画像にはボタンが左についているものがある。あれは鏡絵なんだろうか?
西洋の自画像は鏡絵からスタートしたという見方がある。昔の自画像では絵筆を持った左手(実際は右手)の処置に苦労したらしい。   
鏡絵を脱するためには二枚の鏡を使わなければならない。でも画家がそんな仕掛けにエネルギーを浪費したとは思いたくない。
孫が時折手紙をくれるようになった。おきまりの鏡文字が混じっている。でも結構読めてしまう。孫がいい加減なのか、こちらがいい加減なのか。本来、人間の感覚がいい加減なものなのか。そういえばレオナルド・ダ・ビンチも鏡文字を愛用したがどういうつもりだったのだろう。
昔、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏が「鏡で見ると上下は反対に映らないのに左右はなぜ反対に見えるのだろう」という内容のエッセーを書いておられた。納得のいく答えは書いてなかったと記憶している。
楽しい実験をご提案したい。ご自分の一方の手に「上」、反対の手に「下」と書いて、「上」の手を上方にし、横になって鏡の前に寝てみてください。上の手は上に、反対の下の手は下に映るはずです。
ね?鏡絵は反対になっていないでしょう?ただし「上」「下」の文字はしっかり裏返しになっている。何と! 



【画家 故・宮崎静夫(熊本県)さんのこと】


  宮崎静夫さん(by Takashi)

ある画家の半生をテレビドキュメンタリーに書いた。画家とは熊本県植木町在住の宮崎静夫さん。香月泰男画伯と同じくシベリア抑留を経験した人で昭和四十五年以来、七十四歳になった現在も戦争体験をモチーフに作品を描き続けている。平成十三年、氏は初めて福岡市美術館で戦友を偲ぶ「死者のためにシリーズ」の自選展を開いた。多くの人が氏の作品に衝撃を受けた。
宮崎さんの絵は解りやすい。題材には少年兵、シベリアの昿野、原野に咲く花、鉄条網、軍靴といったものが多い。それらを正確な筆致で描いていく。が写実ではない。たとえば極寒のシベリアに広がる憂愁の空。地面に鉄条網の木柱が生え、空中に歩き疲れた軍靴がぽっかり浮かんでいるといったシュールな構図だ。異様な組み合わせから浮かび上がってくるのは寓話性である。たとえば古賀春江を連想する。だが宮崎さんの絵には古賀の持つ開放的な寓話性はない。求心的な沈潜が宮崎さんの絵を「負の寓話性」に導いていく。さらに彼は作品に軍人写真を挿入する。カンバスにグリッドを引いて少年兵時代の古い写真を寸分違いなく拡大描写する。もともと正確なカメラの映像を画家の目でさらに精緻に描くのだから、作品となった少年兵は完熟した果実のように官能的に復活する。宮崎さんの絵は解りやすいが暗い。なのになぜ魅惑的なのか。それは氏の作品に内在する官能のなせるわざだ。バスケニスはバイオリンなど楽器の曲線を肉感的に描いたが、宮崎さんは少年兵や老兵を、あるいは銃後を守った日本老婆の苦悩のしわまでを粘液的に描いて官能に昇華した。
戦前、「絵のうまい田舎の子」に過ぎなかった宮崎さんは復員後、似顔絵描きとなって糊口をしのいだ。四十歳にしてニコヨンを描いた「ドラム缶シリーズ」で画家開眼。三年後「死者のためにシリーズ」で明確に自己回帰を始めた。以後黙々と戦争体験を手繰る一筋の道を歩みつづけている。絵描きとは「変貌の画家」たらんとするものか「不変の画家」たらんとするものか。画家ならぬ私自身のテーマにも符合する。 (太平洋戦争開戦の日に記す)



【橋雑考】   



(カット 香月 隆)


何年か前、故宮丸貞三氏(元RKB毎日放送専務)がフランス紀行文を書かれたことがある。なかにゴッホの「アルルのはね橋」の話題が登場した。とても印象に残った。私自身、橋が好きだからだ。
九州山口を毎週旅してずいぶん橋を見てきた。そのたびに橋の機能に妙な哲学的感慨を持った。何かと何かを結ぶインターフェースの役割を果たしているのが橋だからだ。しかし宮丸氏の文は私に別のことを教えてくれた。ゴッホはアルルのはね橋をたくさん描き続けたらしい。ある絵では橋ははねあがっているし、ある絵ではパラソル姿の貴婦人が閉じたはね橋を渡っている。幌馬車が渡っている絵もある。幌の中には恋人同士が乗っているのだそうである。
なるほど橋とは存在自体がロマンなのだ。そのことにはっと気がついた。あ、橋が好きな俺もロマンチストなんだと安心した。長い間、橋に惹かれてきた謎が解けた。
今まで見てきた橋にはいろいろなものがある。門司港レトロにある近代的なはね橋「ブルーウイングもじ」は現代的なデザインだが好きだ。歩道にぬくもりのある木板を使っている。人のみが通れる歩道橋だ。「はねばし」というやまとことばをそのまま使っているのがいい。可動橋とか遮蔽橋とか不細工な漢語でないのがいい。
宮崎県綾町の東洋一の大吊橋はどぶづけ鋼材を使った幻滅的な鉄橋だが、対岸に見事な照葉樹林がある。大分県竹田市緒方町の日本一小さい石橋の対岸は単なる農家だ。これもいい。佐賀県唐津市七山の観音大橋。農道に過ぎないのに名前と橋のつくりが大げさである。しかし対岸は緑生い茂る農地である。これもしぶい。私もこの観音大橋を描いてみた。
橋と端は同根のことばである。はじっこにあるからハシ。別にインターフェースの機能なんかなくてよい。ついでに箸も手の先で持つからハシ。「ハシのハシをハシをもってハシった」は最後のハシだけが違う。これは「馳せる」の自動詞である。



【自然界はフラクタル】



(出典:フラクタルギャラリー)


私の親しい先輩がカオスの理論を研究しています。私もかれに感染してカオス理論の入門をかじっています。
ロジスティック差分方程式で乱数を発生させ、数値表の美しさにほれぼれしたり、フラクタル曲線とかマンデルブロー集合図形などに魅入られています。
二枚の鏡を合わせ、中から鏡の世界を覗くと風景が遥か仮方まで続いているように見えます。そこでは風景が一方向にのみ縮小図形を展開しますが、これがいろんな方向に展開するとフラクタル図形やマンデルブロー集合図そっくりになります。
万華鏡は1816年、イギリスの物理学者ブルースターが発明したとされています。私は温泉旅行で万華鏡を求め、お湯に入る時間を削って万華鏡で遊んでいたことがありますが、万華鏡は原始的なからくりでフラクタル図形やマンデルブロー集合図形の一面を見せてくれます。
コンピュータでフラクタル曲線とかマンデルブロー集合図形を発生させると実にさまざまな無限の図形を描いてくれます。
そのどれもが息を飲むほど美しいデザインなのです。こういった世界もやはり神がプログラミングしてくれた美だと勝手に理解しています。
図はインターネットのフラクタルギャラリーから拝借したものです。コンピュータが自動発生した図形に多少人の手を加えたものです。
きょうは久しぶりに見る美しい秋空です。マンデルブローによれば自然界はすべてフラクタルで描けるのだそうです。



【電光探知機】

太平洋戦争末期、電波探知機(電探)というのがあった。いわゆるレーダーだ。電波を発射して物体にあててその反射波をうけ、往復時間や指向性により物体までの距離と方向を決定する装置のことである。
ところで相手が金属製の飛行機なら電探で発見できるが、木製や布張りの飛行機だったら、電探は役に立たない。そこで当時の『機械化』という雑誌に、「電光探知機」のアイデアが提案された。電波の代わりに電光を使えば、木製の飛行機でも布製の飛行船でも探知できるではないかというのである。それを読みかじった小学二年のわたしは早速、割り箸やら段ボール紙やら銅線やらガラクタを集めて、電光探知機の模型を夏休み工作として学校に出品したら、担任の先生が「これ面白いじゃん!全国の発明工夫展に出品しなよ。ただし出来が目茶苦茶悪いな。作り直してこい。先生が出品の手続きをしてやる」ということになって、再製作しなければならない羽目になった。ところが実は、わたしは滅法不器用で、とても全国のコンクールに出す作品なんかできるわけがない。そこで六歳年上のいとこに頼み込んで作って貰った。いとこはのちに大工の棟梁に見込まれて弟子入りしたほどの器用な男だったから、それはもう、超立派な電光探知機の模型を作ってくれた。わたしは「これ、出来がよすぎるよ!」と困惑したが、いとこは「下手に作るのはかえって難しい」と相手にしてくれない。やむなく学校へ持って行ったら、担任の先生はニヤリと笑って、「おう!よくできたなあ!」とそのまま全国コンクールへ出品してしまった。ところがそれがなんと入選してしまったのだ。わたしはNHK放送局で製作記を放送することになった。放送局へは担任の先生が自転車に乗せて連れて行ってくれた。先生が前を見ながら言った。「おまえなあ、今度は自分で作ってこいよ」
・・・その後、わたしは模型少年になって行くのだが、今に至るまでわたしの作った模型や機械は出来が悪くて、使う人に迷惑ばかりかけている。



【RH-2の四球ラジオ】




昭和24年(1949)、ようやく鉱石ラジオから卒業した中学二年のわたしは、生意気にもいきなり四球式ストレートラジオの製作に挑戦する決意をした。いわゆる並四ラジオである。当時、ようやく戦後の混乱期から脱した日本では、多くの家庭でラジオを欲しがっていた。我が家でもおふくろがなけなしのヘソクリをわたしに渡して、「ラジオを作って」と依頼してきたのである。それまでわたしは数台の鉱石ラジオを作って母や兄弟にプレゼントしていたので、こんなによく鳴る鉱石ラジオを作れるのなら、大きな音の出るラジオも作れるのじゃないかと思ったらしい。わたしは大いにハッスルし、初歩者向けのラジオ製作雑誌を探していたら、実体配線図つきの並四ラジオ製作記事に巡り合った。なにしろやっと、配線図が読めるようになったばかりだ。実体図つきというのが嬉しくて、その記事に飛びついた。並四ラジオといえば、昔のラジオに詳しいかたなら、6C6ー76ー6ZP1ーKX12Fというラインを思い浮かべられるだろうが、当時のわたしにそんな知恵はない。わたしがめぐりあった並四の構成は、なんと同じ真空管を四本使ったトランスレス式だった。球はもと海軍で使っていたという国産のRH−2。ナス管でもなくダルマ管でもなく、GT管にメタルをかぶせたような不気味な真空管だ。初球で検波し、つづく低周波増幅管も電力増幅管も、さらには整流管もRH−2ですませてしまうという、ちょっと恐ろしい構成だった。さらにトランスレス式だから電源変圧器はない。B電源は100ボルトACを整流して(倍圧整流ではない)そのまま使用する。A電源は、球を四本シリーズにつないで抵抗で電圧をおとし、100ボルトから直接給電する。最後に整流管も無理矢理二極管結線にして整流をさせるという構成だ。

今から考えたら怖いような回路だが、出来上がったラジオは、いわゆる蜘蛛の巣配線というやつで鳴らなかった。配線の間違いを治しても、音量が目茶苦茶小さかった。悪戦苦闘を続けたわたしはいつのまにか知恵がついて、結局再度おふくろからの再度の資金援助を受け、6C6ー6ZP1ーKX12Fというごくスタンダードな並三ラジオを作り、それが大きく8インチのマグネチックスピーカーを鳴らしたのである。RH−2の四球式にくらべると、まことにシンプルな並三のほうがよっぽど実用的だったのである。

その後随分経って、RH−2四球式ラジオに込められていた壮大なポリシーに気づくことになった。鳴らなかったあのRH−2ラジオには、きっと設計者のロマンが秘められていたのだと今に思う。RH−2については回をゆずって書いてみたい。



【RH-2その2】



◆前回の続きである。鉱石受信機を作ったあとで、わたしがはじめて作った真空管式ラジオはRH−2という真空管を四本並べた構成だった。同じ真空管を、高周波増幅、検波、低周波増幅、整流のすべてに使った奇妙なアイデアのラジオであった。そいつはうまく鳴らなくて、結局、製作を6C6、6ZP1、KX12Fいう並三ラジオに切り替えて、やっと「鳴るラジオ」を完成させたのだった。ところがあとで、RH−2は万能型真空管で、理屈から言えば高周波増幅、検波、低周波増幅、整流、何でもござれの真空管だということを知った。わたしが作ったRH−2四球式が鳴らなかったのは、実は一本の球が不良品だったからで、ラジオ設計者のミスではなかったのだ。

日本は昭和六年(1931)から中国との戦争に入って、切迫した国際関係を迎えることになった。そういう時代の中で、高周波増幅管、検波管、低周波増幅管などと、用途を限定した真空管を多種作るのは許されなくなってきた。という訳で、何にでも使える万能型を開発しようということになって、考案されてきたのがRH−2だったらしい。従って私の作ったラジオには、その万能管を使って、高周波増幅、検波、低周波増幅さらには整流管まですべてRH−2でやらせてみようという夢が設計者にはあったに違いない。戦時中、軍隊向けに作られたRH−2は、戦後かなりの数が残っていて巷に出回ったらしい。それなら手に入りやすい万能管の機能をうまく使って、四本の真空管をすべて同じものにしてみようという思いで、設計者は配線図を書いたと思う。

ところで私はRH−2を万能型真空管と書いたが、実はまだ改善の余地がある中途製品だった。RH−2を母体にしてさらに能率の良い「ソラ」という真空管が、その後、誕生するのである。ソラ・・・・・・昭和十八年に誕生した純粋な日本名である。もっとも、昭和33年(1958)初版の真空管の本『全日本真空管マニュアル』には、RH−2(ソラ)と記載してあり、RH−2もソラもごっちゃにしていたらしいが、本当はRH−2を改良したのがソラだった。ちょっとマニアックな話になるがその話は次回で。(写真は『全日本真空管マニュアル』1967表紙)



【西堀栄三郎先生】



西堀栄三郎by筆者


 1985年頃の話である。西堀栄三郎氏の事務所に伺い、先生にお会いすることになった。その頃わたしは放送局に記事を書く仕事をしていて、取材として西堀先生にお会いすることになったのだ。だが思い返しても先生に何を伺ったのか、愚鈍なわたしははっきり覚えていない。先生が南極探検越冬隊長として活躍された頃の話を伺ったような、あるいはそのころ日本で始まった原子力発電について伺ったような、ぼんやりとした記憶があるだけだ。この記事を書くにあたって、昔の手帳やら日記帳やら調べたのだが、ついに分からなかった。情けない。

 簡単に西堀先生のことについて述べておく。

 西堀栄三郎:1903年〜1989年。京都帝国大学理学部化学科卒業。京大助教授から東京電気(東芝)へ。東芝技術本部長時代に海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発。技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。戦後は技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に提唱。デミング賞受賞。戦後日本の飛躍的な工業発展に寄与した。京大に教授として就任。第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務めた。日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。主な著書をあげると、『南極越冬記』岩波新書、『石橋を叩けば渡れない』生産性出版、『西堀流新製品開発―忍術でもええで』日本規格協会出版などがある。

 ところで西堀先生とお話するときに驚いたことがある。話に熱が入ってくると、そばに控えた秘書にテープレコーダーを持って来させて、「これから話すことは録音して!」と指示をされる。秘書がガチャンとテープレコーダーの録音ボタンを押す。当時のテープレコーダーは大きなラジカセスタイルで、大げさなプッシュボタンを押して録音するというやつだ。話の内容ごとに録音したり中止したり、打ち合わせの間、ガチャガチャがつづいた。「話のなかにどんな良いアイデアが潜んでいるかもしれないからね」と先生は言われた。ICレコーダーが普及した今なら、録音したメディアは WAV とか MP3とかで早送り自由自在だが、当時はカセットテープにアナログのリアルタイムで音が入っている。あとでコンテンツを検証するにしても、リアルタイムのテープ再生が必要だ。そこまでして、会話中に思わず飛び出したアイデアをテープにつなぎ止めておくという、西堀先生の普段の努力に驚かされたものである。

 ひとしきり取材を終わって帰ろうとすると、先生が昼飯をご馳走しようと言われた。恐れ入っておずおずと先生に従った。どのような素晴らしいレストランに案内されるかと胸をはずませたが、行き先はごく普通の蕎麦屋であった。先生はざるそばを注文した。若いわたしは(先生はわたしの父親と同い年だった!)、もう少し重いものを食べたかったのだが、ざるそばで我慢した。あの偉大な先生と蕎麦を食べたことは私の一生の思い出である。

 蕎麦屋を出しなに先生は声を落として、「今の日本の原子力発電よりもっといいシステムがあるんだ。『溶融塩炉』だがね」とつぶやかれた。西堀先生は溶融塩炉支持者だったのだろう。世間に自分の意見が通らないくやしさがにじみ出ていた。溶融塩炉については今もいろいろと論じられている。難しいシステムだが、今更ながらわたしも勉強してみたい。

溶融塩炉



【ハッカー英語辞典】



自分の本棚を眺めていたら冒頭の画像に示すような本があった。「ハッカー英語辞典」である。著者は六人のアメリカ人で翻訳者は犬伏茂之。発行所は自然社。1989年出版である。今から30年余り前の本である。さて、ハッカーとは人のコンピュータに侵入して悪事を働く者のこと。その悪者が使う英語辞典のことか? 思わずそう理解するところだが、じつはさにあらず。ハッカーとはもともと、「コンピュータを深く理解し、それを駆使する者」という意味だったそうだ。それがいつしか、高度な技術を駆使して他人のコンピュータに侵入し、悪さをするケシカラン奴という意味になった。おそらく、鮮やかな仕事をする優れものへの、凡愚のねたみが、ハッカーの意味をねじ曲げたのだろうと、わたしは邪推している。ところでこの本が発行される前に、すでに『ジャーゴン・ファイル(jargon file)』と言う本が出されていた。これはコンピューター達人が六人集まって、オタクでなければ理解できないような言葉を操り、自分たちだけの用語を披露した辞典だった。『ジャーゴン・ファイル』は邦訳されていないが、ウィキペディアに詳しい。ぜひググっていただきたい。冒頭の画像の英語辞典は、そのジャーゴン・ファイルを改訂した本であると、前書きにあった。さてこの本を作った六人の人たちは、どのようなハッカー言語を使っていたのだろうか。例を次に述べる。例えば食事や近くのレストランの話をするために、たくさんの短縮表現が作られた。こんなダイアローグがある。

「Foodp?」

「Smallp?」

「T.」

「T!」

これがじつは、次のような意味になるというのである。

「いま食事をしたいかい?」

「まあな、Joyce Chen の Small Eating Place へ行くっていうのはどうだい?」

「ぼくはオーケーだ」

「じゃあ、一緒に行こう!」

このように途方もない意味に展開されるのである。これを読んでわたしはあることを思い出した。アマチュア無線家(ハム)同士が交わすハム用語だ。例えば・・・

「はじめてお会いします。いいお天気ですね。お名前は? おところは? また交信しましょう。ではさようなら!」

以上のような会話を、ハム用語でやるとこうなる。

「はじめてのEyeball QSO ですね。FBなお天気です。QRAは? QTHは? またQSOしましょう。では73!」

ちなみにハッカー英語辞典のなかにはハム用語もいくつか含まれていた。アマチュア無線からコンピュータの世界へ移っていった技術者も多いから、ハム用語の一部がコンピュータの世界へ引きずられていったというケースもあるかもしれない。

最近若い人たちが、自分たちだけしか理解できない言葉で会話を交わしていることがある。年配者たちは、正しい日本語を使いなさいと眉をひそめるが、自分たちだけにしか理解できない言葉でコミニケーションを繰り広げるのは、オタクたちのたとえようもない楽しみなのである。

『ハッカー英語辞典』の主筆ガイ・スティールは「コンピュータ業界の専門語とか術語については、たくさんの辞典がある。だがこの本は違う。本書は遊びの本として作られたのである」と書いていた。分かる分かる。パソコン・オタクが2、3人集まると、もう、まわりの人をそっちのけにして、自分たちだけ分かる話をピーチクパーチクやっている。その路線上に、この本があるのだ。そこまで理解すれば、パソコン・オタクも、まあ許せるか。



【デジカメで新聞スクラップ】



多くの方が新聞の切り抜き、そしてその利用法には頭を悩ませていると思う。私も昔は新聞の切り抜きを、古い週刊誌や古い週刊誌やノートなどに貼り付けて、スクラップブックとして利用してきた。少しリッチになってくると、新しい専用スクラップブックを購入するようになった。最もポピュラーな、コクヨのスクラップブック<ラ>N-40である。スクラップブックを買うようになって、私は毎週日曜日の新聞の切り抜きが楽しい仕事になった。しかしその楽しい仕事も、やがて苦痛となり、1月に1回か2回、ため込んだ膨大な新聞を繰り広げながら格闘するという苦痛の作業となった。そうなると記事の整理もズサンになり再利用頻度も少なくなる。時折ある記事を思い出して探し出すときには、どこに目当ての記事があるかわからず、リサーチはてんやわんやの大仕事になる。結局、確か保存したはずだがと残念に思いながら、スクラップ探しをあきらめて、文章を書くことも多かった。そのようなときに出会ったのが梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」だ。いわゆる京大式カードを使って資料を整理すると言うやり方だ。簡単に言うと、図書館カード方式である。梅棹氏発案の京大式カード(A6版カード)を使ってまず目録カードを作る。そこに記事の見出しと簡単な内容を記入して、カード式インデックスを作るのである。他方、A4版のハトロン紙にインデックスに対応したコンテンツ(新聞記事)を貼り付けていく。記事は小さくても大きくてもかならずA4版のハトロン紙に貼り付けるというところがミソだ。コンテンツを収納した大箱は、邪魔にならないように書斎の隅に置いておく。インデックス・カードも、コンテンツ収納箱も、内容は辞書のように、五十音順に並べておく。そして目録カード集を入れたインデックス箱は仕事デスクのそばに置き、インデックス箱で利用できそうな記事を発見したら、コンテンツ収納箱から対応するスクラップを取り出し、原稿書きに利用するのである。これがわたしの新聞記事スクラップ法、並びに利用法となった。だがこの方法も、いつしかわたしのデータ整理方式から消えていった。パソコンという新しい武器が登場したからだ。かつて利用していた京大式カードのかわりに、パソコンにインデックスを作成させて利用することになったのである。カードよりはるかにこちらの方が便利である。しかも処理スピードが速い。しかし不便もあった。昔の1990年代のパソコンはよくフリーズした。OSも壊れた。そこで半日とか1日とか、大事な原稿書きを中止して、パソコンの修理に向かうことはよくあった。原稿書いているのだかパソコンを修理しているのだか分からないような馬鹿しい執筆の日が続くこともあった。少しずつパソコンの信頼度が上がってきて、ウィンドウズにWIN95が現れ、クラシック・マックが新しいOSに変わると、パソコンの修理に手間ひまかける必要が少なくなった。パソコンはスクラップや資料整理に偉大な能力を発揮してくれるようになったのである。やがてスキャナーが登場。新聞記事の切り抜きをスキャナーで代行することも増えてきた。といっても当初のスキャナはせいぜい100dpi以下の解像度であった。写真や見出しぐらいしか保存できなかったが、その性能もあっというまに向上し、300や600はおろか、10000dpiの解像度も楽にこなせるようになった。そこで新聞記事をスキャナーで取り込むことが可能になった。ただスキャナーの場合には、紙面がA4サイズ以下でなければならないのがつらい。ということから最近ではデジカメで新聞記事を撮影するようにしている。最近のデジカメは性能がよくなった。わたしはニコンD3300というカメラをつかっているが、これで毎日、新聞の全紙面を撮影してパソコンに取り込んでいる。全紙面を毎日取り込むという作業は極めて有効な資料収集である。ニュースと言えば今ではテレビ、ラジオ、スマホなどから怒涛のように押し寄せてくる。何も新聞を撮影する必要はないではないかと言う人もいるかもしれないが、いやそうではない。テレビ、ラジオ、スマホのニュースなどは、その時点では極めて有益なニュースではあるが、後日の再利用が困難な情報である。大げさにいえば、歴史の時間の流れの中でとらえることができない。ところが何年何月何日と言うフォルダの中に、その日の新聞記事を放り込んでおくと、後で検索するときに実にアクティブな情報として回収することができるのだ。つまり、毎回のスクラップ作り、新聞の記事収集、ついでに他の資料も含めて、デジカメで撮影し、日付をつけたフォルダーに放り込んでおくと、のちほど歴史に紐付けされた血の通った情報としてよみがえってくるのだ。最近のようにいろんな情報があちこちからこま切れに入ってくると、時間的な整理がなかなかできない。やはりさまざまな情報は歴史の流れの中に紐付けされていなければならないと思う。そういった意味で毎日、新聞を撮影し、それをスクラップとしてパソコンの中に収納しておくことは、有意義な情報整理だと思う。カメラは別に高級なカメラではなくても良い。手軽なデジカメでも、あるいはスマホでも、十分に新聞の文字が読める。

デジカメの新聞データをパソコンの年月日フォルダーに収納する。1ヶ月でもよいから続けてみると、それがすばらしい収集収集であることに気づきますよ。一度お試しになってみては?(写真はニコンD3300で撮影した新聞の一面)



【小さな紙飛行機】

わたしが書いたショートショートをご紹介します。ブログとしては長いのですが、およそ2500字です。ご退屈しのぎにどうぞ。


   掌編小説「小さな紙飛行機」

 ある晩、お父さんが家で晩酌をしていて、かなり機嫌がよくなり、ぼくを相手に遊び始めた。

自分の部屋から小さな箱をもって来て、

「面白いものを見せてやろう」

 と、ふたを開け、なかから白紙を切り抜いて作った、郵便切手よりも小さな紙飛行機を取り出した。

「さっき作ったんだ。世界一小さい模型飛行機だぞ」

 そういって手のひらにのせた。すると小さな紙飛行機は、するするとお父さんの手のひらを走り、腕に這い上がった。

「えーっ! なになに! 飛ぶの?」

 お父さんは機嫌よく笑って、

「今日は飛ばない。お父さん劇場はこれまで」

 と、その紙飛行機を箱にしまうと、ポケットにかくした。そのあといくらせがんでも、小さな紙飛行機を見せてくれない。

「面白いものはちょっとだけ見せる。これが人生のコツだ。分かったか。わっはっは」

 いつものように最後は話をお説教に持って行って、聞くほうをしらけさせるのだった。

 その夜、ぼくはなかなか寝付けなかった。あの郵便切手よりも小さな飛行機が、うす暗い部屋の中を、白く光って飛び回る。急上昇したり急降下したり、宙返りしたりする。そんな情景がまぶたに浮かんで、やがて夢うつつの世界で、小さな飛行機は銀色のジェット機となって、快音を響かせて大空を飛翔し、彼方へ去って行く。ぼくは一晩中、飛行機の夢を見つづけて翌朝を迎えた。

 トイレの前でお父さんと、ガッチンコしたので早速訊いた。

「あの小さな紙飛行機、いつ飛ばしてくれる?」

「紙飛行機? なんだ、それ」

「えーっ! きのう晩ごはんで、見せてくれたじゃないか」

「お父さん、酔ってたからなあ。忘れたなあ」

 そのあとまったく何気ない普通の声で、

「行ってきまーす」

 と叫んで、お父さんは出勤していった。

 ぼくは納得できない。

「お母さんも見たよね」

「うん」

「あの小さな飛行機、間違いなく動いてたよね」

「たしかに」

「きーめた。今晩、お父さんに絶対飛ばしてもらおう」

 学校に行っても、あの小さな紙飛行機のことが忘れられなかった。窓の外をときたま飛ぶ飛行機やヘリコプターの音に耳を傾けた。バーッカタカタと爆音を立てて舞い上がったり、舞い降りたり、ぐるぐる旋回しているのは新聞社のヘリコプターだろう。大型の扇風機のようにブーンと響いてゆっくりと飛んでいるのはきっと自家用の小型機だ。大きなエンジンだけど抑えた噴射音で環境を気にしいしい高い空を飛んでいるのが航空会社の定期便だ。世の中ってけっこう飛行機が多いんだなあ。あの紙飛行機は空を飛べるのかなあ。飛ぶときはやっぱり音とか立てるのかなあ。

 学校から一目散に下校したぼくは夕方、お父さんの帰りを待った。その夜、お父さんの帰宅は遅れた。ときどき、お父さんは電話連絡もくれないで帰りが遅くなることがある。今晩がそれだった。

 お母さんがむくれていたので、ぼくはおそるおそる言った。

「お父さん、遅いね」

「あした、会社やすみだからね。ハネのばしてるんだよ、きっと」

「もう! せっかくひとが楽しみにしてるのに!」

「酔ったら訳わかんなくなっちゃう人だからね」

「今晩はあの紙飛行機を飛ばしてもらえないよね」

 お母さんの顔が魔女になった。

「ばらそうか。あんなの飛ぶわけないよ」

「えっ、どうして」

「お母さん、見たんだ。紙飛行機の裏側にハエを貼ってたよ」


「ハエを?」

「きのう、夕方、あれを作る前に必死でハエを探していたよ。バッカなお父さん」

 ぼくは泣きそうになった。ザンコクだよ、お父さん!

「どうせ、最後はごまかすに決まってる。よし、お父さんの部屋で真相を見せてあげよう」

 お母さんはぼくの手を引いて四畳半に行った。

「お父さんはハエが死んじゃいけないって、箱のふたを開けてたけど、さっき見たら死んでたよ」

 お父さんのパソコンデスクの上に紙飛行機の箱があった。中を覗いた。

「紙飛行機、ない!」

「うそ!」

 お母さんも箱を覗いた。

「さっきまであったのに!」

 二人は部屋を探し回った。

「ここだ! お母さん、紙飛行機が動いている」

パソコンデスクの足もとを、小さな紙飛行機がごそごそ這いまわっていた。

 数匹のアリが嬉しそうにハエの死体にむらがって、紙飛行機を運んでいたのであった。


 翌朝、お母さんが大きなコップに氷みずを入れてぼくに差し出した。

「どうせ、二日酔いだよ。お父さんに水、持って行って」

 ぼくは水を持って行くと、お父さんに文句を言ってやった。

「紙飛行機にハエを貼るなんて、インチキだよ」

 お父さんは水を一気に飲み、それから答えた。

「でもさ、郵便切手より小さな飛行機がするする動いてびっくりしたろう。おまえの驚く顔が見たかった。お父さんは大満足した」

 バカにされてふくれたぼくを見ると、お父さんはベッドに体を起こした。

「マジな話しようか」

「とか言って、またインチキだろ」

「切手の大きさの宇宙船団で、宇宙飛行を考えた科学者がいたんだ」

「ウソだ!」

「その科学者は、ドクター・ホーキングって人だ。知ってるか?」

「――なんか、聞いたことある」

 思い出した。ホーキング博士。体が不自由で車いす生活をしながら物理学を研究し、イギリスで勲章を貰った人だ。『子どもの科学』という新聞記事で読んだことがある。

 お父さんはつづけた。

「この地球は環境が変わってやがて人類が住めなくなる。そこでホーキングは、地球の環境に近いケンタウルス・アルファの惑星へ移住するために、切手サイズの宇宙船団を考えた」

 うっ、ほんとかな。まただまされそう。

「切手サイズの宇宙船だぞ。すごいだろ」

 それはすごいよ。でもぼくはお父さんの話に半信半疑になる。

「まだヒミツだけど、会社に切手サイズのドローンを開発してくれって依頼があってさ。みんな大はりきりで、昨夜も盛り上がっちゃってさ」

「え? え?」

「すまん、もう少し寝る」

 そういうとお父さんはごろりと横になって目をつぶってしまった。

 なになに、切手サイズのドローンか。面白そうだなあ。いや、お父さんの話がもう少しマジになるまで、話半分に聞いておこう。

子どもっぽいお父さんの寝顔を見ながら、ぼくはそう思った。でも少しずつ、お父さんを信用しそうになる――。少しずつ。

(終わり)




【スパイダーコイル】




2002年頃スパイダーマンという映画が上映された。予告編を見て私は「スパイダーマン? それって蜘蛛男ってこと? そんなバカバカしい映画、当たるわけないじゃん」そう思ったものだ。ところがスパイダーマンの映画は大変な話題となった。さもあろう、アメリカでは小説スパイダーマンが大人気を博し、それを映画化しようと様々な人が動いていたのである。映画はわが国でも大いに当たった。あの奇妙な身のこなし、追い詰められたら蜘蛛のようにワイヤーを操って窮地を逃れる。まことに奇妙キテレツな着想である。スパイダーマンが話題になると、私は全く別のことを思い出していた。そういえば昔、小型ラジオを作るとき、よくスパイダーコイルを巻いたっけという思い出である。私の心の中で、映画スパイダーマンと電気器具のスパイダーコイルが、見事にリンクした。




ところでスパイダーコイルご存じない方もいらっしゃるかもしれない。昔、鉱石ラジオをはじめ、初歩者向けラジオを作ったわれわれには懐かしいコイルである。この図のように、足の多いヒトデのような絶縁体に、銅線を手巻きしてコイルを作った。細い銅線をボビンに精密に巻くことができない入門者は、決まってこのスパイダーコイルを巻いたものだ。あたかも蜘蛛の巣のようなので、スパイダーコイルと言った。


話はころりと変わるが、蜘蛛の巣と言えば昔の子供たちはトンボとりの道具としてよく利用したものである。捕虫網の袋を外して丸い金枠だけ残す。その枠で蜘蛛の巣を剥ぎ取っていく。やがて金枠はたくさんの蜘蛛の糸で、レース状になる。とんぼの群れに入り、それを振りかざして飛翔する蜻蛉をくっつける。この方法でトンボをとらえると、トンボに傷がつかない。蜘蛛の巣が足りなくなると、大きなオニグモを捕まえ、尻から糸を吐き出させて金枠にはりつけたものだ。ところがこうして作った蜘蛛の巣は、粘着力がなくてトンボをとらえることができなかった。やはり自然の蜘蛛の巣でないと、トンボがくっついてくれない。そのトンボとりの遊びの中で、蜘蛛が吐き出す糸に、粘着力がある糸と、粘着力のない糸があることを知った。簡単に言えば無理矢理吐き出さされた糸には、粘着力がない。しかし蜘蛛が餌を捕まえるために吐き出した糸には粘着力がある。よく調べてみると、蜘蛛の巣のタテ糸には粘着力がほとんどなく、タテ糸に張り巡らされた横糸の部分に粘着力があることがわかった。要するに縦糸は単なる支持枠で、横糸こそ役目を果す部分だったのだ。かくて私の認識の中では、スパイダーコイルと蜘蛛の巣との間に、現象として深い相似関係が成立したのである。


もう一つスパイダーに関して、私の心の中でリンクしているものがある。なつかしのグループサウンズ「ザ・スパイダース」だ。1960年代、彼らが新しい時代の寵児として登場したとき、私もポップが好きだったし、私の大好きな喜劇役者堺駿二の次男が堺正章であるということもあって、よく聴いたものだが、彼らが歌うとき、私は必ずスパイダーコイルを連想した。マチャアキは今でも芸能界第一線で活躍しているが、私の心の中では、今でもスパイダーコイルと直結している。技術的な話になるが、昔われわれが巻いたスパイダーコイルは、多くは太いエナメル線を巻いたものであった。今回、改めて確認したところ、太いエナメル線よりも、細いエナメル線をより合わせて作ったリッツ線のほうが、Q値(コイルの性能)が高いとある。そういえば思い出した。昔は、リッツ線が高価で、やむなく太いエナメル線の単線を使ったものだ。あの頃は金がなかったからなぁと少年時代の自分を思い起こす。ネットで調べてみると、今でも趣味の研究で、単線やリッツ線でスパイダーコイルを撒き、コイルのQ値を計測している人がいた。スパイダーコイル、妙に私の心をとらえるコイルである。




【小さな紙飛行機(続)】

先にこのブログで「小さな紙飛行機」というショートショートをご紹介したことがある。郵便切手より小さな紙飛行機がごそごそと動き回るのを子供が見て驚くという小編であった。小さな紙飛行機の裏には、実はハエが貼りつけてあった。あるいたずら好きの父親が、子供を驚かせるために作ったのである。実は、紙飛行機の裏にハエを貼るというアイデアは、私のオリジナルではない。戦時中のことである。私は父親に連れられて、ある料理店で食事をした。隣の部屋がとても賑やかなので、父がが仲居さんに聞いた。

「隣はえらく賑やかだが、どういう客が来ているのだ」

仲居さんは答えた。

「明日出征なさる方を囲んでの送別会なんですよ」

それを聞いた父は、

「そうかそうか。それではやむを得ない。大いに騒いで欲しいな」

と笑って答えた。しばらくたって、隣の部屋の雰囲気が静かになり、帰り支度を始めた人たちが我々の部屋の前に来た。そして出征者とおぼしき男が私を見るなり聞いてきた。

「坊は飛行機が好きか」

「うん」

するとその男はポケットからマッチ箱を取り出し、中から郵便切手よりも小さな紙飛行機を取り出して自分の腕を這わせた。この情景は私のショートショートにも描写している。

男の二の腕をするすると登っていく不思議な紙飛行機を見て、私はすっかり心を奪われてしまった。

「坊、驚いたか」

「うん」

「おじさんの発明品だぞう!」

私はその頃、小学校2年生。月並みに飛行機の好きな少年だったが、豆のように小さな飛行機の出現に驚き、その男がまるで神のように思えたものである。

父が聞いた。

「あなたは、明日出征なさるのですか?」

「はい、お国のために出征します」

父は突然膝を打ち、「えらい。頑張ってください」それから、「万歳! 万歳!」と叫んだ。私も思わず父とともに万歳を叫んだ。男はにっこり笑って、小さな紙飛行機をマッチ箱に戻すと、ポケットにしまい、「では参ります」と出て行った。

私はてっきりその男が、小さな不思議な紙飛行機を私にくれるものだと思っていた。がっかりした。そして、その小さな紙飛行機が、どういう仕組みで動くのか、不思議でならなかったが、その疑問は解決されないまま神は去ったのである。ヒミツを教えてくれなかった男に強い不満を感じて、後で部屋にやってきた仲居さんに、「なんであの小さな飛行機は動くの」と聞いたら、彼女は笑い転げて答えた。「飛行機の裏にハエが貼ってあったの」「そんなところじゃろ」。父はしらけたが、私にとって、切手よりも小さな紙飛行機がするすると動く姿は、神秘のシーンとして印象づけられていた。それから私はハエ飛行機のとりこになった。小さな紙を飛行機型に切り抜いて、裏にハエを貼り付けるのである。これが結構難しい仕事だった。第一に、ハエをつかまなければならない。蠅たたきでつぶしてしまったら、使い物にならない。止まっているハエを、てのひらではらって生きたままつかみとる。努力に努力の末、ハエ取りは見事に上達した。次はハエを飛行機の裏に貼り付ける作業である。接着剤はセメダインやハエ取り紙の粘着剤はつかえない。肝心のハエがすぐ死んでしまう。そこで飯粒を接着剤にする。ヘラで根気よく練ると極めて強力な接着剤が出来上がる。自然素材だからハエを痛めない。それを使ってハエを貼り付けるのである。昔は身の回りにいろんなハエがいた。大きいハエがいいだろうと金バエを使ったら、案外生命力が弱くてすぐ死んだ。結局落ち着いたところは、もっとも普通にいるイエバエだった。生命力がけっこうあり、補給もすぐついて一番実用的であった。以上のような少年時代の体験から、あのショートショート「小さな紙飛行機」が生まれたのである。小学2年の私は、ラジオから聞こえる大本営発表のニュースを聞きながら、よく思ったものである。

「あの兵隊さんは、戦地でもハエ飛行機を作って遊んでいるのかなあ」

あれから80年近くになる。今ではハエもめっきり少なくなった。小さな紙飛行機を作ることは難しい。あの出征兵士はその後、どのような戦争体験をされたのだろうか。小さな紙飛行機の記憶は、私の戦時体験の歴史に深く紐付けされている。



【RH-2とソラ】



近代戦争には様々な兵器が使用される。 かつて戦争では真空管も兵器の一つであった。大東亜戦争が始まる直前、日本無線がドイツのテレフンケンの真空管をベースにして、FM2A05Aと言う真空管を開発した。これは高周波増幅、検波、低周波増幅など多くの用途に対応できる多機能型真空管で、海軍は航空関係用真空管に指定した。 こういう多機能型は、一種類を運べば何にでも使えるので戦地用としては好都合だったからだ。

 やがて海軍では手持ちのFM2A05Aが少なくなったので、東芝へ生産を依頼した。ところが折から東芝電子工業研究所技術本部長であった西堀栄三郎氏は、FM2A05Aの製造が技術的に難しくて、手間ひまのかかる仕事だということを知っていた。そこで、「このような球はうちでは作れません」と断った。海軍は、「なにがなんでも作るか、それともお前を死刑にするか」と詰め寄った。西堀氏はやむなく、「じゃあ、作りましょう。ただしもっと良い真空管で作りやすいものをお目にかけます」と約束した。実はそのころ、東芝ではやはり多機能型真空管であるRH−2を万能真空管として開発しており、それを母体に新しい真空管を製作するアイデアがひらめいたからだ。

 新しい真空管は RHー2に比べて Cpg(プレート・グリッド間静電容量) が非常に少なく、そのため優れた性能を持っていた。かつ戦時下の物資不足の折、トタン屋根を剥がしてでも作れるという非常時に即応した真空管で、「真空管組立教本」というマニュアルを西堀氏が詳しく書いたために、婦女子でも容易に作れるという利点があった。

  新しい真空管に新しい名前が必要となった。それまで多くの真空管には英数字が使われていたが、戦時下の日本の国威発揚の意味もあって、ソラと名付けられた。京都大学出身の西堀氏は「ソラか。そらええ名前や」と言ったという。

 以上の文は、ネット記事“真空管Hシリーズ物語http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestoryhsiries.htm”、“真空管【ソラ物語】http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestorysola.htm”などを参考にさせていただいた。諸氏も是非ご参考にしたいただきたい。

 それにしても、戦争というのはただバンバンドカン!と戦うだけでなく、背後にその何倍もの戦争クラスターがあり、それぞれの分野で多くの人が知恵を絞っているのである。それを思うと、人類の巨大な文明が戦争という無益な暴力に費消されている不合理を感じざるを得ない。

 ところで私はソラの開発者、西堀栄三郎さんに一回だけお会いしたことがある。順序が前後するが、そのお話は先に書いた(西堀栄三郎先生)。まだお読みになっていない方はご一見頂くと幸甚です

(引用画像は、現代芸術社刊「戦争のカード“ハワイ大空襲”」絵・前村教綱)



【摂氏と華氏】


とある夏のこと、日本に来たばかりのアメリカ人と話していた。

「暑いですねえ。きょうは30度位あるかもしれない」

相手はきょとんとして答えた。

「いや。90度はあります」

今度はこちらがきょとんとする番である。

はっと気がついた。アメリカ人は温度を華氏で表現する。摂氏30度は華氏でいうとおよそ90度だ。ナットク。

二人で温度の話になった。摂氏とか華氏とか<氏>を省略して話したら、アメリカ人にとって30度というのは氷の温度で決して暑い温度ではない。また、日本人にとって90度といえば、ゆで卵ができる温度で、同じ数字でも両国民にはまったく違う感覚で受け止められるのだ。

温度に摂氏と華氏があることを知ったのは中学時代。さらに高校に入って一次方程式を習うと、摂氏と華氏の関係をF(華氏温度)=1.8×C(摂氏温度)+32という式で覚えることになった。ただ、F=1.8C+32という数式は特殊で、私はすぐ忘れてしまう。そこで、<y=ax+b>の一次方程式を応用して、<y=1.8x+32>という変換式で覚えることにした。こいつは私の貧脳でも、すぐに覚え、終生忘れずにすむ変換式となった。

別の日。とあるビヤホールでの飲み会で、「今、何度だろう? 摂氏、華氏、両方で答えてみよう」と誰かがくだらない問題を出した。バカ連中の集まりで、加えてアルコールも入っていて、みんなの答えはむちゃくちゃだった。異彩を放ったのは私である。バカの一つ覚えで<y=1.8x+32>がしっかり頭に入っていたから、誰かが摂氏の温度をいうと、うーんと暗算してその華氏を示した。誰かが華氏をいうと、ちょっと逆算に時間はかかったが、正確に暗算で摂氏で示した。みんなの拍手が私に向けられた。

ところが一人の男が、「摂氏華氏の温度換算なら、オレのほうが早い!」と異を唱えた。そこでその男と私が、摂氏華氏換算の暗算競争をすることになった。だれかが、「摂氏〇度は華氏何度!」と問題を出す。次は、「華氏〇度は摂氏何度!」と問題を叫ぶ。5回ほど競争をやったが、その男のほうが私より断然暗算が速かった。暗算競争に勝ったその男がニタニタ笑いながら、摂氏華氏温度変換速算式を披露した。

「y=1.8x+32なんてダメよ。摂氏温度を2倍してそれに30足せば華氏が出るじゃん。これのほうが、アバウトだけど、簡単に計算できるぜ」

彼の発言を式にすればこうなる。y=2x+30だ。なるほどすっきりしている。じつはこの男、かつてエアバスA300の機長として大空を飛び回っていた経験があり、外気温度を機内にアナウンスするときに、その変換式を使っていたという。私は彼の英語を聞いたことがある。微妙な言い回しのない大づかみな英語ながら、核心をついた表現で何度も感嘆したことがある。

「ワシらは人の命預かってるからね。無駄が一番いかんのよ」

こんな男の飛行機なら安心して乗れると思ったことはしばしばだった。

華氏はどうやって産まれたか。ネットをお調べいただいたらこまかな説明がいろいろ出てくるが、曖昧を恐れずにざっくり言えば、零度でも凍らない海水が凍る一番冷たい水温を華氏零度。人間など哺乳動物の体温を百度として、それを百等分して決めたのが華氏の温度となっているそうだ。

それにしても世界の国の多くは摂氏を使っているのに、アメリカ人はなぜ華氏など使うのだろう。

簡単に言えば華氏は人間の感覚を数字としてよくとらえているから。アメリカ人は結構保守的なところがあって、華氏の人間的なところを業界や消費者も棄てがたく感じているかららしい。

最後に華氏の棄てがたい一面を一つ。太陽の表面温度は摂氏五千五百度あまりだが、これを華氏に換算するとちょうど一万度となる。華氏ファンにとって楽しい数字だ。



【円周率】

20年ほど前、小学校で円周率を3と教えることになったと言う噂が広まったことがある。これはあいまいな誤報で、正しくは「手計算の場合には円周率=3を認める」ということだったらしい。私たちは昔、よく計算尺を作って計算をしたが、この場合は円周率=3とおいても、それほど支障のないことが多かった。そういう意味では円周率=3もナットクである。しかし学校では現在も正確な数値として3.14を採用しているそうで、3.14になじんでいる私たちにとっては嬉しいことである。私達は便法として、22/7という円周率も習った。手計算のとき3.14よりは使いやすい。22倍して3で割れば答えが出てくる。22/7はおおよその値だといっても、計算したら3.142857142である。これは円周率の真値と比べて、0.04%の誤差しかない。実用円周率としては精密すぎるほどである。岩波数学入門辞典を開いてみたら、紀元前200年ごろのアルキメデスが、すでに円周率は223/71<Π<22/7という数字を出していることが分かった。私達はアルキメデスの数字を今も使っていたのである。つくづくと彼の偉大さを思い知らされた。

しかし、計算機やコンピュータを使って計算する場合には、無駄な正確値と分かっていても、やはり円周率は3や22/7ではなく3.14でないと具合が悪い。学校で円周率が3.14に落ち着いてほっとしている。岩波数学入門辞典にはほかにもにもわかりやすい数式があった。イギリスのブラウン卿という貴族はご覧のような、連分数で円周率を表示した。

もっともこれを実際に計算しようとしたら、それはそれで大変な作業だろうと思う。

かつて「たかじんのそこまで言って委員会」と言う番組があった。出演者の1人、三宅久之氏が、小学校で円周率が3になったと言う噂を聞いて、思わず、「僕らはもっと詳しく習ったのだがなあ」とつぶやいた。まわりが、「なんて習ったのですか?」と聞いたら、氏は恥ずかしそうに、「3.141592613・・・覚えるの簡単ですよ。身一つ世一つ生くに無意味いわく泣く身文(ふみ)や読む・・・てね」と答えた。まわりはみんなびっくりしていた。「さすが三宅さん!」

三宅氏は早稲田大学独文学卒。純然たる文系だが数学も基礎はしっかり勉強したかただと、テレビを観ていた私も驚いた。実は「身一つ・・・」は昔の学生は多くが覚えていたものだ。私も高校時代にその言葉を覚え、今でも飲み会などで得意げに朗誦して喝采をあびたり、あるいは座をしらけさせたり、おなじみの歌である。ネットで調べてみると、もっと詳しいのもあった。例えば「見て人世人行くに無意味異役な組に御社に虫耳闇に鳴く之には箸ひとつ食なと禄見苦く見ない人を嫌に置くなよ食よ至極文を縄ひとむしり路地や路地を焼く悔むにはお小夜や都合見よ二度と汝も泣く」〜これは100桁だそうである。また500桁を3人で朗誦する小学生の動画がネットにあった。「しもだ教室ー円周率500桁」だ。コメントには、「小学生の3人が円周率500桁を、歌やリズムなどですいすい覚えることができました。覚えてから時間が経っても、忘れずに記憶しています。子どもの能力には本当に驚きです!円周率を覚えてからは記憶力がぐんと高まり、他のものも覚えやすくなったようです」とあった。こうなれば、円周率の正確さを問題にするより、円周率を人間の能力を高めるツールとして論ずるほうがはるかに面白い。



【鶏の羽毛でレントゲンメガネ】



昭和24年(1949年)のことだ。しっかり年代は覚えている。縁日の露店で怪しげなおじさんがボール紙で作った小さな箱メガネを売っていた。

「この箱メガネで手を見ると、骨が見えるんだよ。鉛筆を見たら、シンが見える。この素晴らしいレントゲンメガネ、どうだ、たったの〇〇円(値段は忘れました)。買った買った、早い者勝ちだ」

私は子どものころからおっちょこちょいで、あわててその箱メガネを買って大事に家へ持ち帰った。我が家でじっくりと覗くと、間違いなく私の手が骨まで見える。小さな軽いボール箱の箱メガネ。そこに秘められた驚くべき性能にあらためて驚いた。鉛筆を覗くと真ん中に黒々とシンが見える。だが筆箱を見ると、中の鉛筆や消しゴムが見えるわけではなかった。どうも、物によって、中が見える訳でないことが分かってきた。私はよく縁日でだまされる方だった。今回もやられたかなと思ったが、手の骨の不思議な像は私の心をとらえてはなさなかった。

私は箱メガネを分解した。ボール紙の筒の中はすっからかんで、のぞき窓に小さな鳥の羽毛が貼り付けてあるだけだった。


あまりにも単純な構造で、それは私にとって大きな驚きだった。だまされたという気持ちよりも、不思議!という気持ちのほうが強かった。なぜ鶏の羽を透かして見ると、骨のようなものが見えるのだろう。不思議でならなかった私は、物理学入門書のページをめくって、理由を調べた。その結果、回折現象で光が屈折し、あたかも骨のような像ができることを知った。私は縁日の怪しいおじさんのおかげで、回折と言う現象を知ることができたのである。そのとき中学二年。私はにわかに光の不思議に開眼し、理科部の発表会で、「鳥の羽のレントゲン写真」と言うタイトルで、回折現象を発表することになる。以後、高校でも理科部に属し、光についてこまごまとした研究を続けたが、波動理論など数式を勉強しなければならなくなって、受験勉強を理由に理科の勉強はやめた。そして文系凡愚の道へまっしぐらに、いや、よたよたと方向転換した。あれから70年余りが経過した。そして、この記事を書くにあたって、またレントゲンメガネの作成に挑戦している。今回はボール紙を使うのも面倒で、スマホのカメラレンズに、鶏の羽毛を貼り付けた。



そして撮影したのが冒頭の偽レントゲン写真である。鳥の羽はキジでなければならないと紹介したブログがあったが、私の場合は70年前も今も、鶏の羽を利用して、ご覧のように偽レントゲン写真を楽しんでいる。

それにしても思う。

「オレって70年たってもちっとも進歩してねえんだよなあ」

いつわらざる私の心境である。



【Yの与太話(沢庵随想)】

久しぶりに、食事にきれいな沢庵が出た。鮮やかな黄色なので、ふとY2号と言う言葉を思い出した。Y2号とは今から半世紀あまり昔、食用色素として登場した黄色2号という着色料である。Yellow2〜略してY2号と言う名前で新聞を賑わした。この色素は当時から有害性が問題になり、学術論文でも取り上げられた。そしてしばらく世間から忘れられたが、今はY2号に代わってY4号と言う着色料が沢庵の1部には使われているようである。勿論、化学着色料ではなく、自然の色素、たとえばくちなしの花から取った色素を使っている場合もあるそうだ。

Y2号と言えば、モノクロ写真撮影用のY2号と言うフィルターがあった。波長5000オングストローム以下の光を見事にカットオフする黄色のフィルターで、モノクロフィルムのコントラスト強調フィルターとして使用された。レンズに装着すると、画像がくっきりとなる。特に風景写真に威力を発揮した。カラーフィルムが普及する前は、ベテランカメラマンが愛用したものである。たくさんのカメラマンが集まる撮影会などで、うっかりY2号の装着を忘れたら、恥ずかしい気持ちになったものだ。

黄色と言えばいろんなことが思い出される。

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」には、ロッテを恋い焦がれる若き青年ウェルテルが、ロッテを諦めようと苦悩を積みかさねるが、最後にロッテと会って、自殺を遂げる。そのときウェルテルが着ていたのは、黄色いチョッキ(ベスト)だった。黄色はウェルテルのシンボルカラーでもあった。

ジョン・フォード監督の「黄色いリボン」と言う西部劇があった。映画が全国に上映されたあと、「あの娘の黄色いリボン、誰に見しょとの髪飾り」という映画の主題歌が町に流れたものである。

山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」も大ヒットした。ラストシーンには、黄色いハンカチの満艦飾がはためく。その下での静かな夫婦の再会。高倉健と倍賞千恵子のロングショットは忘れられない。大げさに抱き合ったりしない控えめな演出にかえって観客は泣いた。あの鮮やかな黄色のハンカチは多くの日本人の心に焼き付いているはずである。

さて私のジャケットのサイズもY2号だ。<Y>は黄色ではなくやせ型の意味。<2>は5尺2寸のこと。約157センチの身長である。ちなみにA5なら普通体型の5尺5寸(約167センチ)のこと。B7なら肥満型5尺7寸(約173センチ)用のこと。今は余り見かけないが、昔のジャケットにはY2、A5、B7などのサイズ表示があった。実はその表示法、今も業界では生きているらしい。

以上、沢庵をたべながら思い出した<Y>にまつわる与太話である。



【トンボ釣り】

「とんぼつり 今日はどこまで 行ったやら」

わたしの好きな句だ。加賀千代。ご存じ、江戸時代中期の俳人の作である。250年も前の俳句だというのに、今でも言葉の風情は時代を超えていきいきと伝わってくる。

ところでわたしは学生時代、この「とんぼつり」という言葉に引っかかっていた。<釣る>なら、トンボでなく<魚>でしょうと思っていたからだ。でも今では、トンボを釣るという表現に違和感を持たなくなってきた。トンボの王様、ギンヤンマを捕まえるときは全身が緊張した。突然、幻の世界からやって来たような威厳あるギンヤンマは、<捕る>という陳腐な表現でなく、やはり<釣る>という表現がふさわしい。対等に向かい合って駆け引きを展開したあげく、戦果として相手を獲得するのである。

普通のトンボ(たとえばウスバキトンボなど)の捕り方はいろいろある。捕虫網や蜘蛛の巣を張った捕虫器で捕るとか、そろそろと近寄って羽根をつまむとか、手を回して寄ってきたトンボを手づかみするとか、いろんなやり方があるが、あんまり緊張感がない。それに較べるとギンヤンマを捕るときは、格段に厳粛な気持ちになるものだ。

ギンヤンマの釣り方もいろいろあるのかもしれないが、わたしがよく使った方法は、メスヤンマを先に捕まえ、それを糸でくくって旋回させる。すると雄のギンヤンマが飛びかかってくるので、それを別の網で捕獲するというやり方だ。メスヤンマは、地味な魅力のない大型トンボで、捕まえてもあまり興奮しないが、それを目当てに寄ってくるギンヤンマはまことにトンボの王者風で、手中にすると全身が興奮したものである。

ほかにギンヤンマの釣り方としては、京都で行われてきた<トンボぶり>というのがある。これは、長さ1メートルぐらいの糸の両端に、小さなおもりをつけてギンヤンマの近くに放り投げる。すると餌と思うのか、ギンヤンマが糸にまとわりつき、あげく糸に絡まって地上へ落ちてくるのである。小さなおもりはねじ釘や小石のかけらでもいい。いろいろ工夫して遊ぶ人がいるようだ。

そういえばわが日本海軍にもトンボ釣りがあったらしい。航空母艦に着艦し損なって海上に落下した飛行機の操縦士や機体を、近くの駆逐艦が回収した。この作業のことを<トンボ釣り>といった。飛行機をトンボと呼んだのである。

海軍の軍歌『荒鷲の歌』にこんなのがある。

 見たか銀翼この勇士

 日本男児が精こめて

 作って育てたわが愛機

 空の護りは引受けた

 来るなら来てみろ<赤とんぼ>

 ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

旧日本軍はちゃちな飛行機をトンボと呼んだ。赤とんぼというのは、練習機程度の入門機という意味だ。しかし、本来の<赤とんぼ>はわが国が誇った朱塗りで二枚翼の練習機のことで、この歌にうたわれた<赤とんぼ>とは別物だ。この赤とんぼについてはまた別の機会に書いてみたい。



【鏡絵】

かつて、セザンヌの自画像が落札額1740万ドル(約二十億二千万円)で競り落とされたことがある。時には一枚三千円の原稿を書かされている私には気の遠くなる額だ。しかしセザンヌも生前はあまり評価されなかったらしい。ま、いいか。

それにしても、セザンヌは何枚の自画像を描いたのだろう。夫人のオルタンス・フィケを描いた油絵が四十四枚で、自画像はそれよりは少ないという。しかし貧乏画家だったから自分というゼニのかからぬモデルを多用したに違いない。

ゴッホは四十枚、レンブラントは六十枚の自画像を描いたという。みんなプロだから鏡絵ではなかったろうな、とゲスな考察を試みる。待てよ? ゴッホの自画像にはボタンが左についているものがある。あれは鏡絵なんだろうか?

西洋の自画像は鏡絵からスタートしたという見方がある。昔の自画像では絵筆を持った左手(実際は右手)の処置に苦労したらしい。

鏡絵を脱するためには二枚の鏡を使わなければならない。でも画家がそんな仕掛けにエネルギーを浪費したとは思いたくない。

孫が時折手紙をくれるようになった。おきまりの鏡文字が混じっている。でも結構読めてしまう。孫がいい加減なのか、こちらがいい加減なのか。本来、人間の感覚がいい加減なものなのか。そういえばレオナルド・ダ・ピンチも鏡文字を愛用したがどういうつもりだったのだろう。

昔、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏が「鏡で見ると上下は反対に映らないのに左右はなぜ反対に見えるのだろう」という内容のエッセーを書いておられた。納得のいく答えは書いてなかったと記憶している。

楽しい実験をご提案したい。ご自分の一方の手に「上」、反対の手に「下」と書いて、「上」の手を上方にし、横になって鏡の前に寝てみてください。上の手は上に、反対の下の手は下に映るはずです。ね? 鏡絵は反対になっていないでしょう? ただし「上」「下」の文字はしっかり裏返しになっている。何と!



【トンボの翼面荷重】

トンボの語源にはいろいろあるらしいが、その中のひとつに、<飛ぶ棒>から来たという説がある。なるほど、小さな棒がすいすい飛んでいくから<トンボ>なんだと、妙に感心した記憶がある。だが、語源の記載が多い『大言海』をくったら、<とんぼ=飛ぶ棒>語源説は記載されていなかった。とんぼは「とんぼう(蜻蛉)ノ約」とあっただけである。大言海著者の大槻文彦先生はたいしてトンボに興味をお持ちでなかったようだ。

わたしは飛ぶ棒にこだわりたい。毎年、ごく普通に見られるウスバキトンボは、日本で越冬しない。春以降、発生を繰り返しながら東南アジアや中国大陸から渡ってくる。個体で何千キロも海を渡るアサギマダラほどではないにしても、親子存続を繰り返しながら、一族として日本へ渡来してくるのだ。小さな飛ぶ棒が、力を合わせて日本へ渡ってきているのである。飛ぶ棒のいじらしさを感じざるを得ない。

なぜトンボは飛ぶ棒なのか。それは飛ぶことに機能を進化させた結果だ。体重にくらべて羽根がでかいのである。こむずかしい話になるが、「翼面荷重」という科学用語がある。重量を羽根の面積で割った数字だ。例えば70キロの人間が20平方メートルの翼を持ったパラグライダーに乗ったとしよう。パラグラの装備を20キロとすると、翼面荷重は(70+20)÷20=4.5となる。つまり翼1平方メートルあたり、4.5キロの重量を支えていることになる。翼面荷重が少ないほど、ふわりふわりと飛んでくれるわけだ。

この翼面荷重計算を昆虫に適応してみると次のようになった。五月蠅(ウルサ)く飛び回るイエバエは0.06g/平方cm、アフリカ大陸を飛び回るサバクバッタが0.15g/平方cm。これにたいし、ウスバキトンボの翼面荷重はがぜん小さく、0.02g/平方cmであった。ハエよりも、バッタよりもはるかにふわふわ飛べるのがトンボなのである。滞空能力(滑空能力)が大きいと言える。ついでだから、航空機の翼面荷重を調べてみた。ボーイング747では74グラム/平方cmだった。ただしジャンボ機の場合にはトンボと較べて飛行速度が桁違いに大きい。もしウスバキトンボがジャンボ機ほど速く飛べるとすれば、揚力は速度の2乗に比例するから、重量は今の4万倍までOKである。ウスバキトンボの飛翔能力に慄然とする。

最後にトンボの素晴らしさをひとつ。トンボが死んだら、形が変形する前に、紙飛行機のように空へむかって飛ばしてみてください。模型グラーダーのように美しく滑空します。虎は死んでも皮を残す。トンボは死んでも空を飛ぶ。



【赤トンボのうた】

三木露風作詞、山田耕筰作曲の童謡に「赤とんぼ」という作品がある。

  夕焼、小焼の、あかとんぼ、

  負われて見たのは、いつの日か。

この曲では、ご存じのように「<ア>カトンボ」の<ア>にアクセントがおかれて歌われている。この歌のせいではないのだが、私は昔から長い間、会話のなかでも「<ア>カトンボ」と発音していた。

ある日、高校生たちに赤とんぼの話をしたとき、みんなから「<ア>カトンボ」っておかしい! 「ア<カト>ンボ」でしょう、と注意された。私はムキになって、「なにを言う。アクセントは<ア>にあるんだぞ。だって、赤とんぼの歌でも「<ア>カトンボ」だぞ、と言い張ったものだ。わたしはある声優が、「ア<カト>ンボ」と発音したら、「垢とんぼ」になってしまいますと言ったことを覚えていて、「<ア>カトンボ」に固執したのだが、心配になって、アクセント辞典で調べてみたら、なんと赤とんぼのアクセントは「ア<カト>ンボ」だったのである! 辞典は「三省堂の<明解・日本語アクセント辞典>金田一春彦監修(1958年)」であった。

三木露風・山田耕筰の「赤とんぼ」が発表されたのは1927年。作曲者の山田耕筰は日本語に厳しい人で、曲のメロディは日本語のアクセントに忠実に従うのがセオリーだった。とすれば昭和の初期には、赤とんぼは「<ア>カトンボ」だったと考えられる。しかしその30年後には、アクセントは「ア<カト>ンボ」に変わっていたのである。

文部省唱歌にも「赤とんぼ」があり、歌詞は次のようになっている。

  秋の水、すみきつた 流の上を赤とんぼ、

  何百何千、揃つて上(かみ)へ、ただ上へ、

  上(のぼ)つて行くよ、上つてゆくよ。

曲を聴くと「ア<カト>ンボ」だ。

もうひとつ、昔のフォークデュオのあのねのねにも赤とんぼという歌がある。

  赤とんぼ、赤とんぼの羽根をとったら油虫

  油虫、油虫の足をとったら柿の種

という楽しい歌だ。これも「ア<カト>ンボ」のアクセントで歌われている。赤とんぼは「ア<カト>ンボ」だったのだ! だが今もそれは、どうも「垢とんぼ」を連想して、わたしは「<ア>カトンボ」と発音してしまう。

現代における音楽の世界では曲先(キョクセン=作曲が先で詞はあとでつける)が多くなり、歌は日本語のアクセントに従わない場合が多くなった。しかし昔は詞先(シセン)で、歌詞が先にあったから、あとでメロディづけする場合、多くは日本語のアクセントに準じることが多かった。したがって日本語のアクセントを歌で覚える人も結構多かった。

話はころりと変わるが、ビルマのミートキーナ作戦で九死に一生を得て帰還した古参兵の話を聞いたことがある。かれは激戦地に身を隠していたが、アメリカ軍が日本の潜兵に向かって連日、懐柔の音楽を放送してくる。「みなさん、はやく降伏なさい。ふるさとでお父さんやお母さんが待っています」とアナウンスをして、そのあとで音楽をかけてくる。それのなかでもっともこたえたのが、「赤とんぼ」の童謡だったそうだ。思い出してかれは泣きながら話してくれた。そのときのアクセントは間違いなく、「<ア>カトンボ」であって、決して「垢とんぼ」ではなかった。自分のことを頑固じじいだと思うが、やはり赤とんぼは「<ア>カトンボ」であってほしい。



【赤とんぼ九三式中間練習機】


先日、『荒鷲の歌』という軍歌を紹介させていただいた。

  見たか銀翼この勇士

  日本男児が精こめて

  作って育てたわが愛機

  空の護りは引受けた

  来るなら来てみろ<赤とんぼ>

  ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

この<赤とんぼ>とはいったいなにを指すのか、疑問に思う人が多い。わたしは戦時中の子供の頃から、てっきり敵機のことだと思っていた。「来るなら来てみろ、やっつけてやるぜ!」という歌詞なら当然敵機のはずである。敵機を弱兵に見立てて<赤とんぼ>と蔑称したのだと勝手に解釈していた。だが近年ネットで、「赤とんぼというのは旧日本軍の練習機のことだから、来るならきてみろ赤とんぼと歌うのはおかしい」という記事があってびっくりした。なるほどたしかに、赤とんぼといえば、狭義には旧日本海軍の練習機のことだから、来るならきてみろ赤とんぼと迎え撃つのはおかしい。ご説ごもっともである。これにたいして、「荒鷲というのは新鋭機のゼロ戦のことで、<空の護りはゼロ戦が引受けた。練習機の赤とんぼには来てもらう必要ないぜ>と言う意味だ」と説いた記事があった。こっちも成程!である。いったいどっちなのか、作詞作曲の東辰三氏におたずねしたいところだが、氏はもちろん今はない。


画像は童友社のプラモデルである。

<赤とんぼ>とは狭義には旧日本海軍が用いていた練習機、九三式中間練習機のことである。機体は橙色に塗られ、とんぼの頭のようなエンジンを搭載し、とんぼの足を連想させる大きな固定車輪をぶらさげた複葉機で、愛嬌のある姿は日本国民の人気をさらい、戦闘用ではなかったが大量に生産された。これは、練習機という位置づけにもかかわらず、安定性、信頼性にすぐれ、高等曲技飛行もできるほどの操縦性を持っていたからだとされている。

高等曲技飛行という言葉で思い出されるのは、アクロバット飛行で名を馳せたロック岩崎氏(2005年事故死)である。岩崎氏は航空自衛官として多くの戦闘機に乗り、退官後アメリカで修業したのち帰国、エアショーパイロットとして各地の航空祭でアクロバット飛行を披露した。その飛びぶりはすさまじい。宙返り、逆宙返り、垂直上昇、背面飛行、横飛び(というのだろうか、飛行機が斜め横を向いて飛んでいく!)、きりもみ、垂直飛行(水平飛行から90度、機体を横転したまま飛行する)、そのほか表現不可能な神業的飛行を披露した。見ているとこちらも興奮して喉がカラカラになるほどだ。そのロック岩崎氏が好んで搭乗したのはピッツ・スペシャル。日本の赤とんぼが活躍していた頃、アメリカで生まれた複葉機で、今も活躍している。


わたしはこのビッツ・スペシャルを日本の赤とんぼに比定して、赤とんぼの性能を想像している。赤とんぼは5800機も製造されたそうだ。きっと素晴らしい飛行機だったに違いない。日本の特攻機が底をついた昭和20年7月。それまで生き続けた旧式の複葉機赤とんぼは最後の特攻に就いた。250キロの爆弾を抱えて海上すれすれを飛び、レーダー網をかいくぐってアメリカ艦隊に突入。駆逐艦キャラハンなどを轟沈させた。その際、多くの銃撃を浴びたが機体が布張りであったため、金属にのみ反応する近接信管が作動せず、銃弾は貫通するのみで機体は爆発炎上しなかった。赤とんぼは決してしゃばい飛行機ではなかったのである。



【九三式中間練習機・赤とんぼへ送るエール】


他の記事でもご紹介したが、画像は童友社のプラモデル「赤とんぼ」。実機は旧海軍機として5800機ほど製造され、親しみやすい機体が国民の人気をさらった。正式な名称は「九三式中間練習機」。練習機とはいうものの、性能は素晴らしく、終戦直前になると250キロの爆弾を抱え、特攻機として沖縄の海を飛び敵艦を轟沈させた。

赤とんぼには前史がある。まずこのWikipediaの画像を見ていただきたい。



エンジンが160馬力の三式陸上初歩練習機である。海軍は昭和5年頃まで、これを練習機として使用していた。だが、このクラスの上はいきなり戦争実用機になるので、三式と実用機の間を埋める中間機がないかと考えていた。そこで昭和6年(1931)に制作されたのが、340馬力のエンジンを積んだ九一式中間練習機だった。これで性能は格段にアップしたが安定性に難があり、340馬力のエンジンはそのままで、ただちに改良機が作られた。それが九三式中間練習機、すなわち赤とんぼだったのである。

詳しく調べると、九一式機と九三式機のあいだにはあまり諸元の変化がない。ちなみに両方ともエンジンは340馬力、全備重量1500キログラム、翼面積27.7m2とまったく同じである。だが九一式機の翼の位置や形状に大きな改良が加えられていた。それで飛行機の安定性が格段に飛躍したのである。

赤とんぼが誕生してから十一年後、アメリカの民間から曲技用の名機ピッツ・スペシャルが誕生した。赤とんぼと同じく複葉である。


(画像はホビーショップ富士山のプラモデル) 

ピッツ・スペシャルは誕生してから四分の三世紀が経っている。だが曲技飛行の世界では今もリトルキングだ。形状は赤とんぼを二回り小型にしたような飛行機である。

スペックを比較してみると、エンジン<赤とんぼ=340馬力。ピッツ・スペシャル=200馬力>。最高速度<赤とんぼ=214キロ。ピッツ・スペシャル=253キロ> 全備重量<赤とんぼ=1500キロ。ピッツ・スペシャル=680キロ>。翼面積<赤とんぼ=27.7m2。ピッツ・スペシャル=11.6m2>。翼面荷重<赤とんぼ=54kg/m2。ピッツ・スペシャル=52kg/m2>.

これを見ても赤とんぼとピッツ・スペシャルは大きさこそ違え、そっくりさんのきょうだい機みたいだ。ピッツ・スペシャルがあんなに鮮やかな曲技飛行をみせるのだから、赤とんぼもきっと良い飛行機だったに違いない。

赤とんぼ誕生に三年おくれて零式水上観測機というエンジン800馬力、全備重量2550キロ、最高速度370キロという海軍機が製作された。従来の偵察機に戦闘能力を付加した赤とんぼの兄貴分のような飛行機で、その威力はすさまじかった。わたしは戦時中のニュースフィルムで見たことがある。今も勇姿はWikipediaで検索できる。



零式水上観測機(Wikipedia)


さまざまな複葉の名機、わたしの心のなかではいずれもあの九三式中間練習機、赤とんぼに紐付けされているのである。  



【鶏が悪いか人間が悪いか】




我が家は都心部から少し離れた住宅街にある。ある日、近所の寺にヒヨコが一羽迷い込んできた。寺では縁起がいいと喜んで大切に飼うことにした。素朴な近所の住民も一緒になって可愛がり、ヒヨコは境内でゆうゆうと暮らし、すくすく育った。そして見事なレグホンの雄鶏となり、毎朝、刻を告げるようになった。近所の住民は古くからの地元民で、みんな鶏の鳴き声を「牧歌的だ」「なつかしい」と喜んだ。しばらくたって、近くに新しい家が数軒建った。町育ちの若い人たちが引っ越してきて、寺に苦情を言った。
「毎朝、ニワトリが啼くので寝られません。なんとかなりませんか」
古くからの地元民のなかには「あとで引っ越ししてきて何を言うか」と立腹する人もあったが、寺は苦情を素直に聞いて、可愛がっていた鶏を絞めてしまった。お寺も地元民も、その鶏を食べることができなくて、トリが愛した境内の片隅に埋葬した。
この事件があった後、わたしは「ニワトリはなぜ朝啼くの」というテレビ番組を企画し、農業総合試験場で鶏の飼育状況を取材することにした。
施設では電熱式孵卵器で21日間、卵を温めてかえしていた。胚が卵膜につかぬよう、毎日8回、卵を回してやらねばならない。かえったあとは、雛の状態をよく観察しながら、給餌や温度管理をしなければならない。苦労を重ねて育てた雛は150日ほど過ぎると、卵を産むようになる。鶏は狭い片隅で卵を産む本能があるので、ネスト(巣)という小さな棚を作って、そこで産ませる仕組みだ。鶏の体内には卵細胞が2〜3千個あるが、実際に産む数は、飼い方、採算などに左右され、数百という数に絞られる。生後570日前後で産卵率が落ちて、採算がとれなくなるので肉用にまわす。てな感じで、鶏の一生について学んだ。
やがてわたしは妙なことに気づいた。鶏舎では日中でも結構、コケコッコーをやっているのである。
「鶏って、朝啼くのが普通でしょ? 結構、ランダムに啼いていますね」
するとこんな答えが返ってきた。
「いえ、これが普通です。ニワトリは野生のころから、朝の暗いうちに起きる習慣がありました。そして起きてすぐと、夕方に高い声で刻を告げました。ほかの鳥でいえば、『さえずり』に相当します。つまりテリトリーソングであり、雌にたいするラブソングなんですね。しかし人間に飼われるようになって、多くの鶏は夕方啼くことをひかえてしまったようです。これは不自然な話です。たまには忘れないで夕方や夜、啼いたりして、気味悪がられることもありますが、あれはあれで自然なんです」
近所の苦情で寺の鶏が処分された話をしたら、憤然としてこんな言葉がかえってきた。
「鶏だって、半分は啼かなくなって、我慢しているんです!」