未覚池塘春草夢
(イマダサメズチトウシュンソウノユメ)
〜忘れられない青春の夢〜
太平洋末期、電波探知機(電探)というのがあった。いわゆるレーダーだ。電波を発射して物体にあててその反射波をうけ、往復時間や指向性により物体までの距離と方向を決定する装置のことである。
ところで相手が金属製の飛行機なら電探で発見できるが、木製や布張りの飛行機だったら、電探は役に立たない。そこで当時の『機械化』という雑誌に、「電光探知機」のアイデアが提案された。電波の代わりに電光を使えば、木製の飛行機でも布製の飛行船でも探知できるではないかというのである。それを読みかじった小学二年のわたしは早速、割り箸やら段ボール紙やら銅線やらガラクタを集めて、電光探知機の模型を夏休み工作として学校に出品したら、担任の先生が「これ面白いじゃん!全国の発明工夫展に出品しなよ。ただし出来が目茶苦茶悪いな。作り直してこい。先生が出品の手続きをしてやる」ということになって、再製作しなければならない羽目になった。ところが実は、わたしは滅法不器用で、とても全国のコンクールに出す作品なんかできるわけがない。そこで六歳年上のいとこに頼み込んで作って貰った。いとこはのちに大工の棟梁に見込まれて弟子入りしたほどの器用な男だったから、それはもう、超立派な電光探知機の模型を作ってくれた。わたしは「これ、出来がよすぎるよ!」と困惑したが、いとこは「下手に作るのはかえって難しい」と相手にしてくれない。やむなく学校へ持って行ったら、担任の先生はニヤリと笑って、「おう!よくできたなあ!」とそのまま全国コンクールへ出品してしまった。ところがそれがなんと入選してしまったのだ。わたしはNHK放送局で製作記を放送することになった。放送局へは担任の先生が自転車に乗せて連れて行ってくれた。先生が前を見ながら言った。「おまえなあ、今度は自分で作ってこいよ」
・・・その後、わたしは模型少年になって行くのだが、今に至るまでわたしの作った模型や機械は出来が悪くて、使う人に迷惑ばかりかけている。
【自然界はフラクタル】

私の親しい先輩がカオスの理論を研究しています。私もかれに感染してカオス理論の入門をかじっています。
ロジスティック差分方程式で乱数を発生させ、数値表の美しさにほれぼれしたり、フラクタル曲線とかマンデルブロー集合図形などに魅入られています。
二枚の鏡を合わせ、中から鏡の世界を覗くと風景が遥か仮方まで続いているように見えます。そこでは風景が一方向にのみ縮小図形を展開しますが、これがいろんな方向に展開するとフラクタル図形やマンデルブロー集合図そっくりになります。
万華鏡は1816年、イギリスの物理学者ブルースターが発明したとされています。私は温泉旅行で万華鏡を求め、お湯に入る時間を削って万華鏡で遊んでいたことがありますが、万華鏡は原始的なからくりでフラクタル図形やマンデルブロー集合図形の一面を見せてくれます。
コンピュータでフラクタル曲線とかマンデルブロー集合図形を発生させると実にさまざまな無限の図形を描いてくれます。
そのどれもが息を飲むほど美しいデザインなのです。こういった世界もやはり神がプログラミングしてくれた美だと勝手に理解しています。
図はインターネットのフラクタルギャラリーから拝借したものです。コンピュータが自動発生した図形に多少人の手を加えたものです。
きょうは久しぶりに見る美しい秋空です。マンデルブローによれば自然界はすべてフラクタルで描けるのだそうです。
【橋雑考】

何年か前、故宮丸貞三氏(元RKB毎日放送専務)がフランス紀行文を書かれたことがある。なかにゴッホの「アルルのはね橋」の話題が登場した。とても印象に残った。私自身、橋が好きだからだ。
九州山口を毎週旅してずいぶん橋を見てきた。そのたびに橋の機能に妙な哲学的感慨を持った。何かと何かを結ぶインターフェースの役割を果たしているのが橋だからだ。しかし宮丸氏の文は私に別のことを教えてくれた。ゴッホはアルルのはね橋をたくさん描き続けたらしい。ある絵では橋ははねあがっているし、ある絵ではパラソル姿の貴婦人が閉じたはね橋を渡っている。幌馬車が渡っている絵もある。幌の中には恋人同士が乗っているのだそうである。
なるほど橋とは存在自体がロマンなのだ。そのことにはっと気がついた。あ、橋が好きな俺もロマンチストなんだと安心した。長い間、橋に惹かれてきた謎が解けた。
今まで見てきた橋にはいろいろなものがある。門司港レトロにある近代的なはね橋「ブルーウイングもじ」は現代的なデザインだが好きだ。歩道にぬくもりのある木板を使っている。人のみが通れる歩道橋だ。「はねばし」というやまとことばをそのまま使っているのがいい。可動橋とか遮蔽橋とか不細工な漢語でないのがいい。
宮崎県綾町の東洋一の大吊橋はどぶづけ鋼材を使った幻滅的な鉄橋だが、対岸に見事な照葉樹林がある。大分県竹田市緒方町の日本一小さい石橋の対岸は単なる農家だ。これもいい。佐賀県唐津市七山の観音大橋。農道に過ぎないのに名前と橋のつくりが大げさである。しかし対岸は緑生い茂る農地である。これもしぶい。私もこの観音大橋を描いてみた。
橋と端は同根のことばである。はじっこにあるからハシ。別にインターフェースの機能なんかなくてよい。ついでに箸も手の先で持つからハシ。「ハシのハシをハシをもってハシった」は最後のハシだけが違う。これは「馳せる」の自動詞である。
【画家 故・宮崎静夫(熊本県)さんのこと】

ある画家の半生をテレビドキュメンタリーに書いた。画家とは熊本県植木町在住の宮崎静夫さん。香月泰男画伯と同じくシベリア抑留を経験した人で昭和四十五年以来、七十四歳になった現在も戦争体験をモチーフに作品を描き続けている。平成十三年、氏は初めて福岡市美術館で戦友を偲ぶ「死者のためにシリーズ」の自選展を開いた。多くの人が氏の作品に衝撃を受けた。
宮崎さんの絵は解りやすい。題材には少年兵、シベリアの昿野、原野に咲く花、鉄条網、軍靴といったものが多い。それらを正確な筆致で描いていく。が写実ではない。たとえば極寒のシベリアに広がる憂愁の空。地面に鉄条網の木柱が生え、空中に歩き疲れた軍靴がぽっかり浮かんでいるといったシュールな構図だ。異様な組み合わせから浮かび上がってくるのは寓話性である。たとえば古賀春江を連想する。だが宮崎さんの絵には古賀の持つ開放的な寓話性はない。求心的な沈潜が宮崎さんの絵を「負の寓話性」に導いていく。さらに彼は作品に軍人写真を挿入する。カンバスにグリッドを引いて少年兵時代の古い写真を寸分違いなく拡大描写する。もともと正確なカメラの映像を画家の目でさらに精緻に描くのだから、作品となった少年兵は完熟した果実のように官能的に復活する。宮崎さんの絵は解りやすいが暗い。なのになぜ魅惑的なのか。それは氏の作品に内在する官能のなせるわざだ。バスケニスはバイオリンなど楽器の曲線を肉感的に描いたが、宮崎さんは少年兵や老兵を、あるいは銃後を守った日本老婆の苦悩のしわまでを粘液的に描いて官能に昇華した。
戦前、「絵のうまい田舎の子」に過ぎなかった宮崎さんは復員後、似顔絵描きとなって糊口をしのいだ。四十歳にしてニコヨンを描いた「ドラム缶シリーズ」で画家開眼。三年後「死者のためにシリーズ」で明確に自己回帰を始めた。以後黙々と戦争体験を手繰る一筋の道を歩みつづけている。絵描きとは「変貌の画家」たらんとするものか「不変の画家」たらんとするものか。画家ならぬ私自身のテーマにも符合する。 (太平洋戦争開戦の日に記す)
【鏡文字、鏡絵】

かつて、セザンヌの自画像が落札額1740万ドル(約二十億二千万円)で競り落とされたことがある。時には一枚三千円の原稿を書かされている私には気の遠くなる額だ。しかしセザンヌも生前はあまり評価されなかったらしい。ま、いいか。
それにしても、セザンヌは何枚の自画像を描いたのだろう。夫人のオルタンス・フィケを描いた油絵が四十四枚で、自画像はそれよりは少ないという。しかし貧乏画家だったから自分というゼニのかからぬモデルを多用したに違いない。
ゴッホは四十枚、レンブラントは六十枚の自画像を描いたという。みんなプロだから鏡絵ではなかったろうな、とゲスな考察を試みる。待てよ?ゴッホの自画像にはボタンが左についているものがある。あれは鏡絵なんだろうか?
西洋の自画像は鏡絵からスタートしたという見方がある。昔の自画像では絵筆を持った左手(実際は右手)の処置に苦労したらしい。
鏡絵を脱するためには二枚の鏡を使わなければならない。でも画家がそんな仕掛けにエネルギーを浪費したとは思いたくない。
孫が時折手紙をくれるようになった。おきまりの鏡文字が混じっている。でも結構読めてしまう。孫がいい加減なのか、こちらがいい加減なのか。本来、人間の感覚がいい加減なものなのか。そういえばレオナルド・ダ・ビンチも鏡文字を愛用したがどういうつもりだったのだろう。
昔、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏が「鏡で見ると上下は反対に映らないのに左右はなぜ反対に見えるのだろう」という内容のエッセーを書いておられた。納得のいく答えは書いてなかったと記憶している。
楽しい実験をご提案したい。ご自分の一方の手に「上」、反対の手に「下」と書いて、「上」の手を上方にし、横になって鏡の前に寝てみてください。上の手は上に、反対の下の手は下に映るはずです。
ね?鏡絵は反対になっていないでしょう?ただし「上」「下」の文字はしっかり裏返しになっている。何と!
【小さなパソコン美術館】

情報量の最小単位は1ビットだ。私達が1秒間に書ける文字情報はおよそ5ビット。読む速度は1秒間に50ビットぐらいか。
ところが人間の目は1秒間に400万ビットの情報を受け取る能力があるという。ならば「るうゑ美術館」でカッと眼を見開いて絵を拝見すれば1秒間で400万ビット。矢継ぎばやに30枚鑑賞すれば(こんなの鑑賞というのかな?)、何と1億2千万ビット(120万メガビット)の情報を得ることになる。ウォー。
てな訳で私はパソコンにさまざまな画家の絵を写真から取り込んで鑑賞することにした。縮小拡大自由自在。「るうゑ美術館」で絵に寄ったり離れたりするあれと同じ効果がある。
先日、ティソの「温室にて(恋敵)」を見ていた。拡大して見ると素敵な絹のドレスを着たフランスの超美女が二人お茶を飲んでいる。これが恋敵だな、顔では微笑みながら心の中では激しい鞘当を展開しているのだろうな、などと考えているうちにはっと気づいた。パソコンの画面の向こうで私のイメージが勝手に遊泳しているのだ。そこはコンピュータがどうあがこうと情報としてカウントし得ない私の幽玄の世界があった。
昨年暮れ、私の映像用ハードディスクがクラッシュを起こして情報が全滅した。何百点という絵画や3千枚以上の資料写真が消失した。一瞬愕然としたが、しばらくたってヴァーチャルな世界から解放された自分に気づき、妙にみずみずしい気持ちになった。ま、いいや、いちからやりなおそう。さわやかなスタートだった。
あれ以来私のパソコンの中で再び絵画データは増えているが、いまはパソコンが壊れることに恐怖を感じていない。それより手入を怠った庭のハイビスカスが来年咲かなかったり、徳佐リンゴが実らなかったりするほうがはるかに寂しい。パソコンが描くセロファンのような世界に一昔前はビル・ゲイツや孫正義氏が、そして最近では堀江貴文氏や三木谷浩史氏が踊っている。
【 遠野物語におもう】

わたしは戌年なので、犬にまつわる物語が好きです。
遠野物語四二にこんな話があります。
村びとから自分の子ども三頭を殺された母狼(昔は狼と犬は同格だった)が、村の人馬をくりかえし襲います。
たまりかねた村人は、力自慢の男を反撃役に仕立てます。男はワツボロ(上羽織)を腕に巻き、母狼の口にねじ込みます。そして助けを呼びますが、怖がってだれも近づきません。やがて男の腕は狼の腹に達し、さすがの狼も男の腕を噛み砕きながら絶命します。男も里へ運ばれてまもなく死んでいきます。
じつに乾いた復讐劇です。そこには感傷も哀愁も漂いません。叙事詩のように、事実だけが配列されています。なのに、わたしたちは肺腑をえぐられます。これが東野物語の髄です。
わたしもいろんな物語を書いてきましたが、いつも作者の主張を、これでもかこれでもかと盛り込んだ多情多恨のメッセージ劇になってしまいます。
そんなときには思い出すべし「遠野物語」でありましょう。
遠野物語の原案者佐々木鏡石自身、実はハイカラ志向の小説家だったといいます。しかし、挫折の結果、郷土の説話蒐集に方向転換しました。とつとつと遠野物語を語りはじめたのは二十五歳のとき。
一方、遠野物語を書いた柳田國男は官僚的な民俗学者として知られています。東大卒のお役人でした。鏡石の東北弁には閉口したらしく、「鏡石君は話し上手にあらず」と記しています。柳田、三十五歳少々。
少壮の二人の間にどんな「魚心に水心」が交差したのか不勉強なわたしは知りません。しかし「遠野物語」という東北の巨大な平民叙事詩は間違いなく二人の間に誕生しています。これはまさに妖怪です。